kutta

たまに

Les choses de la Nuit

 

人と会う時、それは準備の段階から最中まで
心は大なり小なり揺らぎの中にいて、そのときは決して一挙手一投足に背を押してほしい訳でも、意図を汲んでほしい訳でもないなと思った。

外に指向性を向ける瞬間は立つ瀬に上がり「さあ波打つぞ」と自身の底に向けて点呼をするような感覚で、発生する一連は輪ではなくただの個だ。それをピン代わりに真っ直ぐ落としてログにして、たまに振り返っては現在地を確認する術にしている。
背丈とは違うので見上げ直すこともあるし、首を捻って覗き込まないといけない程の違和感が生まれることもあるが、未来にどの方向に離れていたとしてもその跡が無くなることはない。第六感的なもので察知して、懐かしんだり恥ずかしがったり頼りにしたりいつでも出来る。


孤独の指し方としては、同じ岸に人はいないという感覚。気配を感じる場合の先はもちろん対岸で、話せるか見えるか見えないか の違いで。隣に立たない(立てない)ことにリスペクトが含まれていると信じているので、敵対も、同意も多分求めていない。

当たり前だが、少なくとも気付いた瞬間には事象・感想も含めてその事柄は間違いなく存在していて、その「ある」ことをテーマにさらにみんなが横切り合っていくので、そもそもの核に触れられなくても触れた時間がうんと短くてもおかしくない。知ろうとしないことにさえ理由があるときもあって、そのグラデーションを潰すようにゴールを白黒の二択に納める流れには価値を見出せないでいる。隙間には真価があり安らぎがあると思うのは、そこに各々の暮らしがやっと透けて見えるから。
意見し合い否定したとしてもその過程を無くさせることなんて出来なくて、相性が悪いという事実がまざまざと残る。個人のやり取りの中での雑味が今の自分の輪郭を象っている。


交わして頭の中に積もった言葉にはサーモグラフィーの様に理解無理解の境界が滲み浮かんでいて、マップ状に広がっている。「これを見せられたら早いよな」と「見せたら一触即発になり得るのかな」が交互に浮かぶ程度の実直さで。
理想の域を出ないそれを提示して選択を迫るのはとても危うくて、ましてや総意だと謳うのは窮屈でしかない。少しでも誠実である為には、言葉に出すのを諦めずに空を掴むかのようでも抽象化して伝えること と誓い直すとき、季節の変わり目なのだなと残すのがこの日記なのかもと思う。


ファイティングポーズを取って「さあ組み合うぞ」と挑まれることが増えていく予感がしていて、訳をつらつらと考えては夜を越えることがまた増えてきた。
そして調子を聞かれた私はそれを「元気です」と自信を持って伝える。