kutta

たまに

日常

 

歩く速度が速いと昔から言われていたことを、とくに理由はないけれどたまに思い出すので数分だけしゃなりと歩いてみたりする。
それが良いとか悪いとかも考えていないので、デフォルトとして備えたその速度にはきっとロールモデルがいるんだろうと思うけれど、もちろん全く思い出せない。

 

ひとりのときはご飯も基本的に家で食べたくて、且つ夜の場合は外の、様々を含んだ匂いにまいってしまうときがあるので弁当を買いにどこかに寄ることも少ない。目ぼしいストックがない時は、食パンと餅みたいなラインナップになっても我慢する。
ただその法則から唯一外れるご飯屋があって、バーガーキングで。
初めて食べたのが関西国際空港店で、特別思い出の残る旅ではなかった帰路の途中だったのに
なぜか異様に頭にこびりついて初めのひと口を盛り上げ続けてくれている。
あまりにも繰り返しているので持続性はなく、元々のきっかけも程々の旅なので感情に浸りやすくなるとかのブーストもない。いまもその最中。

お腹がいっぱいになったあとの散歩はとりわけ好きで、30分程度だと歩いてないカウントに入るので
仕事終わりだとそれくらい、休日や友人と会った後だと倍歩く。
「景色が流れることで頭の中も一緒に整理される」実感は確かにあって、体力の減りと合わさって流れ出ていく感覚はサウナ的な気持ち良さもある。
そしてひたすら繰り返す歩行動作に、袋小路に入っていくような所在のなさも感じてそれも好きだ。

なにが不安で不満かはありありと分かって、それを断つ術もなんとなく勘付いているのに
「崩す」ことがいやになるのでしない。
電車に乗る時に駆け足にならないのは気取っている訳ではないし、遠い場所に住む友人と連絡を取ることに常に少しの躊躇がある。

隔たりを越えるにあたって様々なエネルギーが必要で、基本的にはそれは枯渇している。
向いていない部分もあるけれど、たぶん常日頃練るつもりがない。
それで困ったり助かったりするので、やっぱりそのスタンスも崩さないのがデフォルト。
もう見える・寄る場所にははっきりと手垢が付いていて、「まただな」と認識するけれど憂うことはない。
愛しさもとりわけないし、ただその場限りの起伏や結末に過敏なのかもしれない。
何に疲れるのかは分かっているようで分かっていない。


会いたい人はたくさんはいないが明確にいて、よく想っている。
想うあまり乱したくないなと考え始めるので、シームレスに何かの合間で会ってくれないかなとわがままを思う。
愛情の先にも「崩したくない」が存在し、それが成り立つことは無さそうだと知っていて、なお深く根付いていって果てしない。
自分の理想を崩される瞬間は、むしろ待っている。
それが今の日常。


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