kutta

たまに

私の空洞

 

2023年は流れるようにあっという間に過ぎて、当たり前にトピックも多くアクセントも派手な1年だった。
揉まれながらの日々は早かったようにも長かったようにも思える。耐え凌ぐ場面も、キリまで伸びていけた真新しい感触も、横並びで鮮明に残っている。

新天地で暮らすことで、自ずと蓄えているエネルギーの量について敏感になった。
どこが鍛えられる部位でどこまでは日常の中で活用出来るのか、何を差し出して何を得たいのか。
「一新」とはいけないプライドを携えて、内在しているはずの新しい面を探して建てていく。未来の出来事を既存の物差しで測る無意味さと、その行為に宿る拘りの気強さのどちらもに囃し立てられて、根を張る前にふわふわとまた浮かんでは進んでいくような日々だった。

明確に掴んだものは無かったが、「この状態を選んだんだ」という自覚を持って暮らせたので、すこし先のことも見失わず考え続けられている。まだここに住んで想いたいことが待っていると信じられている。
湧いてくる感覚を焚べる先としてはまだ柔らかく繊細で、頼れない程未熟な心であることに気付くととても安心する。自分にとって何が吉報になるかというと、「まだ先があることを知る」ことなんだなと改めて思った。

様々な挑戦が行き交う年で、身近な人たちの気力の増減を肌で感じるような場面も多かった。
どちらかというと励ます側に立つ頻度が高くて、「よし」と目を凝らしては少しでも癒しになれればと構えていたが
今振り返ると、乗り込んできた人が吹かす特有のエナジーのようなものが外からでも分かる程自分に渦巻いていて、それにあたって火を付けてもらうような構図も度々あった気がする。少しジャンキーな存在だったのかもしれない。
麻酔の様な、一時的なものでなければいいなとも過るが、一瞬であれポジティブさを生めたのなら本望でもある。

 

外からでも自分自身でも派手に見える一年を過ごす中で、つまずいたときに「どう癒すか」はしばらくの主題になるなと感じていて。
ひとつ段階を上げるごとに複雑に多岐にわたるものではあるが、まずの体力の確保としては、外のグラデーションが目に毒なら瞑ればいいし、ひたひたな濃度でないと癒せないのならば篭ればいいという、至極シンプルな結論に落ち着いている。

新天地から見る過去はより華やかで吸い込まれそうになるときが変わらずあって、それを振り切るようにとりあえず走るのが今までなら、これからはうんとペースを意識して情動的な案にも従順になろうと思う。
「今」はどんどん過去に入っていくから、纏めて目一杯愛する癖を付けて、ふと抜けられる道を作る術に変えていきたい。知らないことはどんどん外に溢れていくが、取り込んだ様々を繋げる作業は誰にも頼めないし。
寄る年波の中に、経験則の範疇に、すべて入れて仕舞えばいい。

「今との対比」というのも、つまるところ近いか遠いかの差で、
遠いほうが弱くて頼りないかというと、現在(近い過去)が不服なときには逆転する、十分信頼のおける強さを見ることだってできる。
古い過去の強さが足を引っ張るかというと、きっとそうではなくて
ルーツを引っ提げて戦っていない人はいないので、過去の延長線上で暮らしていく以上境界線が曖昧だし、タブーにするのは無理がある。同じ箱に入って混ざっていくものに、一々優劣で論じるのは野暮というか、やっぱり「どうしようもない」というか。
ひっくるめての個人なのでどう進んで何に囚われようが只々それが今であり、過去だと感じる。

そしてもうひとつ「そうかもしれない」と印を付けたのは、僕はつらくなればなるほど、転げたときに翻って愛情に化ける仕組みになっている、なっていくこと。
保つ・諦めないための術。世に出るために用意したステップで、出くわしたい、有って欲しい理想のものが結局愛情なんだとも思う。
「個である」という感覚は揺るがず強まるばかりなので、いわゆる「一緒になる」という理想ではなく、そう念じること自体に焦がれているのかもしれない。誰かによって提示される想像をしても、差し出したその手元にフォーカスがあっている。
捻れていたとしてもこれが僕の「愛」であり、どう昂ってもその感覚が奥でずっと佇んでいる。
これはルーツだ。引っ提げないとおかしい、何者でもなくならないようにする為の呪いでありポリシーなんだと感じる。

貼り出したり、譲ったりはできない柔く淡いそれを改めて認めて抱き寄せる東京1年目でした。
力を蓄えざるを得んし、頑張らざるを得ん。今年の楽しみもはよ作るぞ。

 

 

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