kutta

たまに

嵐の中のシェルターみたい

 

 

久々にしっかりと時間を取って帰省をした。
何かの節目な気もしたし、滅入りそうならいっそプレーンな状態まで戻そう という意図があった気もする。

夏の帰省はなかなかに億劫で、行事と済ますには負荷の高い事柄が多く自分には向いていないと今も思っているが
いざ帰ってみるとこの瞬間だから合うチューニングというものもあって、久しぶりの感触に思うものも一入で。どこか遠のいていたからこそ見えたのかもしれない多彩さが宿っていた。

 

中日には物理的に重さを感じ始めて、22時を過ぎた辺りから散歩に出る。
退屈さが沈殿するような実家でのひとり時間がヒントに思えてふと歩き始めると、どの景色も少しずつ確かに変わっているのに何も違和感を感じられず、妙なパワーに背を押されて2時間程練り歩いていた。

一際騒めいたスポットがあって、鑑賞に浸るには余りにもクリティカルで避けていたはずが
ただの回顧の道筋の途中として、今は自然と辿り着いていた。

 

あんなにも悲しくて切ない場面も淡々とした立体として奥まで整列していて、頭の奥でふつふつと繋がり直す記憶との対比でくらっとする。「何だったんだ」とは思わないが「あっけないんだ」ととても沁みた。
その感覚が矛盾ではないと知ったからだ。出来事を見なしていなすのが上手くなったんだ。紐解いてもただ膨らんで香るだけで済んでいる今の自分のタフさに寂しさも抱く程、僕は威張れるようにもなった。当時目指していた一つの「風通し」とはこのことだったんじゃないか。

一切合切が色褪せると、さも出先からずっと動かない時間の中を覗いているかのような感覚になる。
だがよく見るとしっかりその合切に自分も含まれていて、これが根付くという意味なのかなと感じる。後天的な、いわゆるルーツ。


昔は土着的な肌触りには無関係なつもりだった気がする。傍観者のつもりでこなした様々が整理された今、自分のエモーショナルさや独善的な部分がまとまった肉感として、否定しようのない距離で凛と立っている。
そして昔から悩むと延々と歩いて走って乗って、視線を落としながらどこか遠くまで行ってしまう癖があったのでこうして振り返った際に景色に隙間がない。何がしかの感覚がどの方向にも細かく散らばっているので大長編シリーズのさわりに触れるだけでタイムリミットがくる。
正しいだ何だなんてとてもじゃないが言えない、ただ確かにギラつく発光体のそれらに何も感想を持たなくなるような展開もあるんだろうか。大好きだったローソンが無くなったって涙しないが、そんな風にこの重みも過ぎ去る未来が。

ルーツとトラウマが混ざらず別々のペルソナとして自立したこの先には、期待も不安もまだ湧かない。
よちよち歩きだった日々に釣られて、何度も擦って確認したはずの価値観さえさっき出来上がったかのような勢いで目の前に現れては、ほくほくと心を灯す。
ただそれが今の熱源かというとそうではなく、触れに行って初めて具体的になるので 適度な距離感のお陰で成型の自由があって、自分の要素のひとつとして持っておけるんだろうと感じる。

 

笑いのようにフランクで慣れ親しんだ慈しみで、過去の方々を一つ一つ掬えた気になっているので
きっと東京に戻った先から隆起する自分の擦れ具合にも多少は優しくなれるはず。

 

 

f:id:kutta10:20230830163554j:image
f:id:kutta10:20230830163610j:image
f:id:kutta10:20230830163606j:image
f:id:kutta10:20230830163603j:image
f:id:kutta10:20230830163558j:image