kutta

たまに

ほぼ空中

 

 

一番好きな 秋がくると、ふっと身が柔くなって

視野が勝手に広がった状態で歩く様になるから、饒舌になる。

 


意識的に言葉を出すタイミングが今の日常には中々無く、どんどん拙くなっていくことを「シンプル」と置き換えて

場に慣らしてるんやと区切ろうと サボろうとしたりするけど

 

根が生真面目なので、ふとそういう雰囲気に吹かれると一気に心身共にひっくり返って

対角線にある可能性を意識してうんうんと考え回ったりする。

 


文化的なものへの視点が近い人と会ったときは総じてそうなり、

思い返そうとしてるのか立ち返ろうとしてるのかRIP SLYMEを聴くようになったりする。

 

 

 

熱の有無で言うと。

重みは良くも悪くも減ったけど、「一点集中型」で ビッときたものには注げるだけ力を向けるんやけど

しばらくの間愛想無くされた事柄、人に対しては  ふと一切の感情を捨ててゼロになる。

もう少しマイルドに出来ればなと思いつつ、昔からあまり変わらず 出来ていません。

 


事象やと世に合わせて流れて、変わっていくから

季節と共に向き合い直せたりもするけど、

人は(自分含め)中々変わらんから。平行線は果てしなく長い

事柄に関しても、向いてない・(今は)入ってこないと踏んでカツンと切れる

 


わりかし物事を打ちにいくタイプやから打数は多いんやけど、

「もういいか」となった後はホンマに延々と無を向けてしまうから

何が何かの判別すら付かんし、そこに自我が無いから跳ね返してるだけになる。


こと人に対しては、ただの大きい凹凸に見え始め

瞬間瞬間の熱が有ったとしても 全く覚える気にはならない。

 

 

 

しばらく自分のモードとして

ただ有り物を意思無くなぞっているだけの事でも、「なぞってるな」と自覚して「なぞってます」と言える状態までいければ

それでOK。完了。と感じていて 


良い悪いの 縦の起伏が薄く、充分・不充分というベクトルが感想の中に無くなってきている。

どうしようもなさに対して慣れて練っても練っても結局手前の方で句点を打つ

その過程でただただ集中していた自分・あなた を「良し」と見て終える


それこれの中にいる自分

を俯瞰してぼーっと散歩しながらそれを咀嚼する。

 どうしようもない  は自分の中では殆ど悲しくなく、

木を見る森を見るかの様になる。

 

 

 

支えとなってるのは

手紙のように、1スクロールとちょっとのLINEを2日に一回ぐらい送り合う友人とのやりとりで。

最近では  身の丈通りな唯一のタイミング に感じる。

それのお陰で今名古屋でおれてるんやと思う

 


もっと近々で、狭い範囲で言うと

「いつもの」が生活の中に新しく生まれ始めて、今の生活を 自分の中でも認められたような気がして

足が付いた感触によって、エネルギーを作っています。

 

 

こういう事をストンと話せて

湾曲にし過ぎて原型ないやん、みたいな事態にさせてくれない人がぽつと現れた時に

「やっぱりサイクルがある、巡ってやってくるんやな」と、

無宗教ながらに大きい流れに感謝したりもしています。 

 

 

理想と現実とは言うけど

何にも成れないんじゃなく、もう「これ」に成ってるんよな

 


甥っ子のことを思って切なくなって

仕事の憂鬱さをビールで溶かして

わっと金沢集合金沢解散の旅行を吹っかけるような

今の自分に成った。


やっぱりこの身でしかない 

 

 

離れたいような離れたくないような という、

故郷に思うかの様な感想も少し持てるようになってきた 名古屋での夜です。