kutta

たまに

velocity

 

 

物理的に離れることに対して、昔はあまり悲観したことがなく
「会おうと思えば」「言葉や文章はいつでも」と考えていたけど、
尽きる訳でなくとも肉体的なエネルギーが落ち着きつつある今には、別れは少し刺さるものがあった。

今回の移住も コロナ禍で延期されていたものがやっと、当時望んだ形で決行出来たので もちろん希望の類いの、煌くものも感じている。
でもそれとは全く別で、自分の感覚というのは拡散しながら複数の軸で向かうし育つんだと またしつこく独り言ちる。

内包しているものは各々途方もなく
楽にするために「可能性」と括ってパウチしてしまうが、きっともっと呆れるほどどうしようもないんやろうなと、自己の反芻だけではなく他者を見ることでも感じる様になった。
やっと誰かに寄り添う為の接部を備え始めたのかもと安心する。


3月の半ばに東京に移る前後は 移住の相談を聞いてくれていた友人達と、完結回を設け続けた。
せっかくだからと濃いトピックを選んで丸一日こなしてみたりしても、やはり浮かぶのは組したときのそれぞれの表情や動きで。出来事の性質はきっとこれからもどんどん変わるやろうけど、インアウトの先はここであるし、あるべきだなと感じる。

確信があると照れも薄れて、色々を含んでも速度を落とさずに、只の素直さを交換できる様になる。正しさをいつも発表したい訳ではない。
約束をしなくてもいい人たちと気軽に会えなくなることがとても寂しい。


「近くにいれる」とはなんだと考えると、向かってくる好奇心を許し合えるか が大きい気がしてくる。
愛情は友であれ恋であれ源泉は同じで、その遜色のなさから漂う生々しさを笑えたり喜べたりした時に、一歩近くなっているのかもしれない。
二者間が触れられる距離なのか 声なら届くレベルなのかは相性の話なので、成り立てばどうでも良くて
それを向ける好奇心と受け取る好奇心の曲線が沿った瞬間に、満足げに出来るのかも。

「似ているかどうか」のジャッジではとうにないので、イコールを数える事はそこまで意味を為さないし
近似値という捉え方はいつも自分を苦しめるので、遠ざけ過ぎず、纏わり付かれないように目を配っている。


ここまでの感覚はパズルのピースをはめるときの予感に近くて、蓄積したものをぶつけるのではなく流れ着いた先の景色というか
その時々の現場にしかない出来事で、二度と味わえないものを通り抜けている感覚がある。

自分が自覚したポイントに軌跡として残ったそれを、今後気概を持てるとき・対象に向けてにのみ 透かして前に・間にかざす。
その為に粛々と束ねたアルバムの様なものにも思える。

ただの記録にも目次にも出来るし、風通しを良くも悪くも変えられるフィルターでもあって
まざまざと露呈する可能性のある、言い終わることのない祈念かのように今は想像した。


評することも属することも苦手やと自負するのも、そろそろ終わりなのかもしれない。
許し合える人を明確に取られられ始めたのは、2020年からの鍛錬・執念のおかげな気がしている。

脚色というのは自身でやらないと馴染まないし納得することもないな と今この名古屋からの帰り道で思い、
カードをファイルに綴じるかの如く、この数ヶ月間の写真を編集しては一文書くを繰り返す。