kutta

たまに

ボタニカル

 

街から厳格な雰囲気が薄れ、
先月から職場にもちょこちょこ出向き始めた。

 


全くと言っていい程労働のバネがやわになっていて
フォームが固まらんわ繋がらんわで、最初の2日ぐらいは大体の人がロボットみたいで。

無重力状態のように散り散りになる様はちょっとだけ面白くもあった。 

 


暮らしの軸である「仕事」のリズムを戻そうとすることで
日常ってなんやったんやろう と思いを巡らせる範囲がまた広がったけど、

その後貸し切り状態の中華料理屋で回転テーブルの斜め向かいに座り合って同僚とBセットを食べた時、その輪郭は薄れた。


 
休みの日に友人と街で とはまだ積極的にはし辛く
変わらずオンラインでふっかけたりもしているけど、

こちらも変わらず、親しい人達が相手をしてくれて。脳内はずっと新鮮な空気が漂っている。
退勤して、出勤するまでの間は謎の頼もしさに包まれ続ける。

 

 


どのくらい責任があるのか、
どの範囲からは関われない・影響し得ないのか

を最近はより意識し、重視するようになった。

 

純粋、シンプル、は「普通」な状態では無い。
それは自分がとても歪んでいるからとか、世の中の定義がおかしい!と訴えたい訳でも無く。 

 

ポリティカルなものにどうしても紐付いてしまうし、そう在るべき今ではある。
それは重々分かっている。

でもそこに属していない感情を「無い」とカウントする
今それを持ち合わすことを「悪」と見なす意見が思ったより鋭くて多くて、その躊躇の無さに断続的に虚無感に包まれ、それにも慣れて。

どうエネルギーを生むかに正しさを問うべきではない としか今は思えない。

 

なのでこの一連は懇々と考え、然るべきタイミングで発言したい。

自分の「普通」で大きな統率を図ろうとすることがどうしても怖い
これは根性の有無ではない。他者と関わる以上デリカシーは必要。

 

一生のテーマを提出する時代になり、その年齢になったのだと思い変える事にした。
率いることにポリシーを描く。

 

 

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5月末に、
数年前からオンライン上でやりとりをしていた友人と、オンラインで初めて対面した。


丁寧に人・物・事を起こせる人で、憧れと親しみを覚えていたので
逆に固定するイメージが全くなく、予備動作が自分に全く生まれず
PCを立ち上げたらボンと急に現れたかの様に見えた。「夏が来たね」ぐらいの。

 

お疲れ様 暑いですね と所謂を置いてからは、
助走無く話したい事に入れた気がする

なので細かいディティールはあまり覚えていない。

 

会話が膨らむ瞬間の目付きであったり、解釈をポップに伝えるときの手振りであったり
そういうのばかりが残る健やかな時間で

僕はそうなるとニュアンスで話し続けてしまったりするので
制止する為に酒をあおり、しっかり酔っ払った記憶がある。



くっと気が入ったときのそれが一番心地良いのは、13歳ぐらいから変わってないんやなと改めて気付く。
人に向かわんと絶対反芻出来んポイント


そして朴訥にさせてくれる人が大好きなんやなとしみじみ思う。
そのシーンに出会す度に、なんて愛おしいんやろうと毎回しっかりと思う。

どれだけ形が変わっても、(良い意味で)ズルいなと思うことは一緒。
フェチズムは状況で芽生えるものより血に元々あるものの方が圧倒的に強いんやろうか

 

 iTunesのトップレートをシャッフルで延々と流している時も、薄くそのフェーズに入ったりする。
音楽が大好きで、只々求めていたので。

映画も本も好きやけど違う
変な写真を撮るのも無意識にやってしまう一つやけど、それは呼吸に近くて

それが有った上での悦、最大級の甘え
背負う背負わんじゃなく只の発露

 

矛先は選びたいけど、
脳が先にきてどうにも整然と出来なくなる

でもそれが一番真っ当である瞬間。

 

つまり
ひたむきになりたいことの大本山が、まだまだ いつだってその人たちなのだ
と思う。