kutta

たまに

脈が止まったことないだけ

 

言語について話す機会があり、
「そもそも言葉は誰一人同じ意味で捉えていない」とかの無粋は置いておいて
過去と現在の言動を照らし合わせるような時間があった。


私のことで言うと
「でも」という言い回しを嫌って避けて話していた時期がある。

ただまどろっこしいから ということではなく、
必ず相手に否定を被せてしまうのと、半歩下がって世論かのように伝えて、俯瞰したように立ち振る舞っていると
どんどん責任を持つための体力が落ちていって危ないんじゃないかと考えていたから。

置き換える単語は無数にあるので言葉に詰まることはなかったけど
意図せず堅く強く聞こえてしまって、刺すような勢いになってしまったこともあった様に思う。


そこで、立ち振る舞いを元に戻すことに罪悪感を抱くか否か という話。

 

友人はそこで「優柔不断だ」と責められ参ってしまったらしい。
視線が下半球にぐるんと回ったので、今まさに渦中なのだなと思った。

僕はそこでしっかり悩み切れる友人の優しさが好きなので、
気遣いに気付かれた上でも推し切れるような強さを見せなきゃと集中した。

 


個人のスタンスとしては
もう見繕うほどの理想が無く、また着飾る体力もない(他に割きたい)ので
瞬発力重視、その瞬間での「良し」を探すようになった。

なので
「逆に振れればまたああなるし、戻ってくればこうなるし」というような
その振れてる中に意図があるよという、都合のいい言い回しをしたりもする。
圧倒的な無し! 以外は一旦握り直してもう2、3度振ってみる。

 

正解不正解を何もかもに問うて進んでいる訳でもないので
揺蕩っている中で都度都度手の届くもので工夫して、そのスキルを次の場に持ち越しているだけな気が 最近はしていて。

新しい場所に同じものがあり、それがベストならそれを試し
無いのならば別の道を想像し
あってももうまるで感触が違うのならば。

違うというのも
その場が違うのか、自分が違うのか
自分が違うというのは
変形して離れたのか、今遠いだけなのか

 

ただ2人で思考する時間。
うんうんと互いに練り込む様はとても居心地が良く
だから信頼しているのだなと、もう一重思う。

無限なので楽しいし悲しい。ので、
その各々の思考や営みを否定することは絶対に受け取らなくていいのです。

力を分けられれば!と思い、別れ際に友人の背中をバンと叩き
アクティブなアプローチも混ぜて応援したら、そこの部分はいらんと言われた。

 

 

未来がないなら あとは一人で懇々と過ごせばええもんね。
未来を感じてるから感じたいから、皆さんと関わって
あわよくば話して、続けることを選んでいます。

先にしかないものがあって、
そこに向かう自分はどうしたって今までを携えているので別人にはなり得ない。
同じに見えてももう誰にも戻れない。

ので、多少は未来を夢見て踏ん張ろうと、友をゆっくり見送りながら想いました。

 

放物線は出来るだけ長く緩く、丸く投げかけられるように
これからも心掛けたい。とてもです。