「ユンヒへ」を観てきた。
優しさや朗らかさに励まされる部分が確実にあって、
登場人物が弾けるように笑う部分は一緒に笑って涙ぐんで忙しかった。
鑑賞後に考察を見ると、気付けていなかった様々な
希望を込められたギミックが散りばめられていて、より頼もしくもなる。
時代性をしっかり孕みつつも、自己のルーツや思想もしっかり練り込み、吐露される瞬間が散りばめられていて
時間の途方もなさという表側のテーマの裏に、積み重ねることの希望も感じられた。
しっかりとした肉体性があったから、王道の様な貫禄もあったんやろうか。
プロットのことだけじゃない、馴染みのある説得力
その中でも点々と悔しさが滲んだんやけど、その矛先がはっきりとは捉えられず。
「違う」対象は分かるんやけど「ここ」という点が見えない…
ひとつ、というか毎回何か自分にとって大事なカルチャーに触れた時に勘付いてしまうのが
僕はその中に居ないし、入ろうとしないし、「参加」を求めてもいない という事。
虚しくもなんともないことに不安が湧くんやと思うけど、
もちろんどこにも悪は無いし、是非の物差しとは 違わずとも外れたベクトルの事象だと思う
思う思うで終着点が全く見えませんが
【やさしさが足りないんじゃないかと悩んでいる】ということがここ最近明確になったので、その端に今回直面したなにかも居る気がします。
寂しい作品は好きで、
自分の生活の中にも、有った方が律せられたり更新しようという意欲が出たりするから
それが生まれる余白は必ず欲しいと思うんやけど、
やっぱり「寂しい」は「寂しい」で、寄りかかりたくもなる。
なので繋がりによる多幸感を描かれていると
嫉妬ではなく、遠くの景色を見ている様な、目を細めて頭をくっと引いてしまう様な感覚になる。
でも、ただの連なりなので
あり得ること、大なり小なり死ぬまで抱え続けることなんだと思っていて、悲しくはほとんどない。
それはやっぱり優しくないんだろうか。
想像力で塗り替えられる様な何かなのか、まだ考え切らない
この日記も遠吠えのような気持ちです。
聞いて気にかけて来てくれた人とは精一杯関わるし、
誰も来なくともこの響きが好きなのでまた薄く吠えるでしょう。