kutta

たまに

かくかくしかじか

 

「ひとりでいる瞬間」について考える。

 

他者に意識が向いている時間が近年長く、
ここ最近はとても自覚的にもなっている。

やっとなのか 始まってしまったなのか
何周目ではなく、次のタームであったらいいなあと思う。

 

年末年始で観た映画も結果そういうテーマのものが多く、
かつその時期に浮き彫りになる、自己の輪郭にナイーブになる各々というのもスパイスになって
裏テーマとして定期的に頭を過って(付き纏って)いたそれに釘を刺したい。

 

 

幼い頃からさみしさに対して過敏で、
あまり周囲に馴染めなかったのと、事象丸ごとに対してどこか他人事だったので
それを得意に、自己完結出来る心地よさを求めてひとり遊びが可能なものを好んで選んでいた。

そのせいか目の前の空間に作用している・されている感覚が凄く薄かったような気がする。


それを上手く伝えられず、弱さと取られがちだったので
「パターン」として場所によって違うキャラを強く押し出す様になった。

これは今も続いていて、世の中と関わるためのフックになっているので
マイペースに腕が磨けていてよかったんだな と今は思う。


高校に入学してすぐ、揺れていた家庭環境が破裂し、「パターン」を一旦バンと崩された時
気付けば誰の味方でも敵でも無く、腹から思っている感想というのも、あるはずなのに全く出てこず。
悔しくて夜中に知らない道を、隣町まで延々と歩き続けたりしていた。


良い悪いはともかく、自分が認めていないと何もないのと変わらんやん と初めて実感し
なあなあにしていた「他者と打ち解けること」について、急いで練り直し始めたことを覚えている。

何もかも「実存してるよ」というのを、頭の中で読み上げ続ける。
確実にここがひとつの精神的な山場だった。

 

今では立派な と言い張れる器では無いので省略するが、
どんどんそこから造詣の広さではなく深さに惹かれ、等身大なポリシーも見つかっていった。

でもどんな瞬間にも寄り添っていたのはその「パターン」の自分たちで
それはもう途方もないけど、それで擬似的に世界を拡張していたのでわーとはならずに済んだのかなと思う。

結果思考グセが付き、時間さえあれば無限にうんぬんかんぬん考えられる様に体力が付き
どんどん自己流の言語・リズムで気持ちを維持し始め、そういう民族として生まれてきたかの様に。
対比で外に向いている方、外皮の方はポピュラーで所謂なことも受け止められ、
多面にし続ける事でどちらの対話も止めなくて済んだ。


実態とも虚像とも近くいたい

直線的でも曲線的でもいいから
それを自覚しているか否かに、重きを置きたい。

ドレープでもレイヤーでもどちらでもよく、
大枠のディテールに目を凝らすことで錯覚的に生まれる偶像に突き動かされることもある。
そしてその方が好き

深淵も浅瀬も詰まる所無く、
それに応じているときにだけ静があり
外に持ち出して錯誤し始めた瞬間が動なのかなと思う。

 

 

近々で観たひとつ「グレート・ビューティー」内でのセリフで
自分にも内在している気がしてハッとした一節があった。

 

「 彼岸が存在するが
  私は彼岸には関わらない

  とどのつまり
  ただのトリックだ そう
  ただのトリックなのだ 」

 

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「捉えられる形で世に晒す」というのは
自分にとっては凄く胆力のいる作業で、
どうしても足りなかったり、億劫になったりするけど

最近関わり始められた人たちに、間々勝手に、うんと背中を押してもらえているので
進んでやる様になり、なんだか健やかです。

 

 

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