kutta

たまに

近くて遠い

 

 

異なる意見やバックボーンの存在と関わる・まじわることに飛び交う瞬間の独特な心地よさがあり、
下からや斜めから一緒に中心を覗き込んでいる感覚が芽生える。もちろんそれで合っている。

ただ、他と触れ合う摩擦が気持ちいいだけで同棲しているわけじゃない。
そこで生まれた同意はお互いの理想の未来を語ってるだけで、現在には何もない。

 

それは何も悲しくなく、当たり前のひとつとしてぽつと漂っている。
すべてが叶うものだと思っていないし、叶うべきだとも思っていない。個人的なバイオリズムの中に正しさを持ち出したくない。
究極を言うと、無いとこが悲しいのではなく当たり前が悲しいのだ。


行き着く島がないと気付きかける瞬間にブレーキや額を掛ける、その甘さが虚しく
どうしようもなく生々しくて嫌にも色気にも感じる。
まだ終わっていない未知には理由があるが、様々な耐えられなさによって区切ってしまう。

これはきっと死ぬまで続き、やれ「成長」だ「兆し」だと手を替え品を替え、携え守るものだ。

 

 

生活の匂いには途方もないほどそれぞれがあり、乗り越える・塗り替える類いのものではない。
その考えが健全だと感じることに迷いはないが、人と暮らすことに意義を持ち切らない理由のひとつにもなっている。

「ここまで存在との距離を考えるということは、きっと求めているから。期待をしているから。」というのも少し違って、ただ昔の写真を眺めているだけに近い。
過去に対して所望・期待という軸はない。

 

外から見ると嘆きなのかなと過るが、手触りとしては
呼吸を意識しただけ、ただ深呼吸というほど清々しくなく過ごし続けるために排泄しているだけ、が言葉として合う気がする。

煮詰まっている状態に映ると言われたことがあるが、出すことによって停滞から抜け出すので
瞬間に濁りは解ける。今の正常に戻る。

 

皮膜が薄くも厚くも感じるのは整っていないからで、整わないのは日々移ろうからで、と積み木に似た押し問答にも思えるが
積んでも崩せない部分に期待や執念を抱いてしまうのだなあと感じる。

 

言葉にした瞬間に変わるようなことを連ねることが出来る、この時間に関しては確実に期待が含まれていて
自己にとっての「成長」であり「兆し」だと信じている。