kutta

たまに

拡張と曖昧

 

久々に東京にがっつり滞在し、仕事をして、会いたい人と会いたかった人とご飯を食べた。

 

昔の話と未来の話をちょうど半分ずつ、続けて話していくと
どんどん時間や物体としての境目が薄くなり、どの目線も信用出来る様な力強さを帯びていて
良い集合体だなと勝手に独り言ちていたりした。

そこから離れる少し前からはさみしさも強く強く覚えるが、それは昔からずっと全方位に抱くタイプのものの延長線なので
気に掛けず(当たり前に)帰り着いて暮らし続けている。

 

個人的な節目が近い・欲しいと思い、やきもきすることが最近は多くて
やれ「責任だ」「尊重だ」と自分で自分の首を絞めたりしているうちにいろんな感情への繋ぎ目が少しずつ焼き切れていっていると思っていたけど、
そんなことはなく ただ薄く弱くなっていただけで、しっかり集中するとまだある。

それを拾い出すか否かは自分で決めていい事だと気付ける日はとても健やかで、
それだけで少し自分の良さが香り立っている気になれます。



知識を付けると物事はより淡く近くなっていき、知らぬ時に見ていた遠い自分のそれよりも 曖昧になったように一旦感じる。
目標物自体がそうだからなのか、経過によって自分のジャッジが変わる・重く軽くなることの副作用、めまいの様なものなのか。

フォーカスがあまくなる訳では決して無く、むしろ捉える精度は上がるので
ではなくそれを外に出すために、他者が受け取りやすい形に包む方法が変わる。

それがより豊かに、少しずつ確実に新しいものが含まれていくので、実態のなさ・得体の知れなさに拍車が掛かるんだろうなというのが今思いたい答えです。

 

自然且つあるべきものとしてこのもやを抱えている時の、健やかな歪み。
寝れん夜の、疲れと安心に挟まれている様なあの感覚。

 

 

22.09.08

 

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22.08.23

 

 

どう足掻いたって思想とは構築なので
バリケードであっても哲学であっても等しく積み上がり、個となり得る権利をみな持っている。

 

方法の自由の中に否定は無く、
そうなるとそもそもの返ってくるものがないので続きも終わりも無い。

ただ各々が弧を描き消えていくのを見届けた後は、自分は今「どこのエリア」に居て「どのエリア」に居着きたいのか何度も反芻する必要がある。


そうして所謂大人となり、タフさと不摂生を手に入れていくことに寂しくなることも うんと少なくなっていく。
ただその僅かな寂しさは決して流れ出てもいかず、浄化される訳でもなく、徐々に透過されていきながら蓄積され、ある日それと言わずにまとめて爆発する。


インパクトの方向はそれぞれで、悪意にも善意にも変換は出来るけど、やっぱり「続きも終わりもない」無の感触が強くて
ただ強く発光して、ひゅるひゅる消えてまた蓄える、それを近くで眺めるか否かの選択肢な気がしてしまう。

視界から消えるだけで完全な消滅になるし、
余波を感じただけでもどうしようもなく寂しくなったりする。
「誰か」というのはとてつもなく強くてあっけない。

 

自分にとっての他者との関わりは、いつまでも変わらず本当に曖昧なものやけど
昔と決定的に違うのは、やっていくしかないしやるべきという自負を持っていること。